えーと、アイマスPS3。
なんでこう、動画作るぜ!ってときに興味を引くというか面白いというか、そういうもん出てくるかなw
まあまとめてくるほうが自分には都合がいいかもだけど。
というわけで、ついでなので動画作る前に一気にがががーんと書いちゃう。
あ、興味を引くのはPS3版アイマス自体ではないんですけどね。
その前に「プロデューサーにお願い」についてもどうせだから、もうちょっとまとめちゃう。
アイマスPS3については「平等」「正解」あたりをキーワードに書くんじゃないかなと、先に。
繰り返しになりますが、私は、つまらないものくだらないもの、そういったものあるいはそういったものが次々と出てくる場が好きだし、大事にしたい。
より高みを目指す、個々に対してはそれももちろん賞賛するけども、場所がそういうところというのは好きではないし、ニコマスやニコニコがそのようになるのはまっぴらごめん。
そういうわけで、あの動画の内容には「MADもニコニコもそんなんじゃねーよ」と反論せざるを得ない。
別にスルーでもいいんですけどね。スルーしなかったことについては多分後述。
一方で、ニコニコという公開されている場所に出している以上、ああいう反応があっても当然でしょう。
本来、公開するということは批判や非難等も覚悟してないとならない。
ニコマスは元来そうしたコメントが付くことが比較的少ないようで、たとえばボカロや歌ってみた等では辛らつなコメントもそう珍しくはない。動画という形は珍しいと思いますがw
表に出る、公開するということは、衝突を生むということでもあります。
ところが日本人は、それに慣れていない。慣れていないどころか、それを悪・・・は言い過ぎにしても嫌悪する。
批判ではありません。しかたありません。そういう文化ですから。私もだいたい同様ですし。
だいぶ前ですがこのブログで、踊ってみた動画につく中傷的なコメに怒ったことがあります。最近も某ニコマス系動画についたコメにこっそり怒っておりましたw
そういう攻撃的なコメがつくから日本では顔出しはキチガイ行為であり、みな周囲に合わせ人と異なる行為は控えることとなり、つまりは個人の活動が萎縮するんです。
と言うのは嘘で。
Youtubeにだってえげつないコメントはつきますw
批判中傷発言自体が原因なのとはたぶんちょっと違う。
衝突になれていない、それは嫌悪されるべきものなのが根本的原因でしょう。
和を以って尊しと成す。
日本はその精神で高度に社会を作り上げてきました。衝突を避け和を維持するために、様々な手続き(礼儀等)が出来上がりました。あらゆる場面でみなが一定の手続きに従うことで、平和で争いの少ない安定した社会が成立しているのだと思います。
たとえば知らぬ人と初めて関わる場合なんかもいろいろ手続きがいります。
飲み屋や旅先などは一種非日常の場所みたいな認識で緩和されますが、それでも外国人にくらべると日本人とは非常に関わりにくいw
あ、ネトゲなんかでもそうですね。
外国人は非常に馴れ馴れしい。それは日本人の感覚だと「変なやつ」であり、排斥・・とまでいかずとも非常な警戒の対象です。
私も外国人がそうであるのは外国人だからって思って特に何思わず平気ですが、日本人がそうであると「なんだこいつ?」と警戒をしてしまいますw
そのように様々な手続き・決まりごとに従って行動し、そこからはずれることは避け、そうした人物は警戒さらには場合によっては排斥する。
それによって「平和」が成立しており、平和というのはやはりいいものですから、このことを私だって批判・否定はちょっとし難い。私自身そうした感覚はありますし。
けど、そのことが同調を良しとし個人の活動を萎縮させてる面は否めないと思います。
匿名とはいえ反発を受けることを覚悟した上であの動画をあげたのは、そこは私としては認めたいところでもあります。
もちろんそれは同意ということではない。
しかし異論があっても日本的感覚では、それに反応することは騒ぎを大きくし場を乱すことであり、スルーするのが正しい。
そうです。
歌ってみたなんかでもそうですけど、表に出る以上批判中傷的な反応もあって当然のものと覚悟しないとならないというのは、そうしたこともスルーしなければならないということです。
批判というものを認めたくても、一方でこれはたいていの人にはきついだろう。
批判などもあって当然であれば、それに対して反論や怒りを出すのも当然だと思います。
でも、どっちも「駄目」なんです。
和を乱すから。
中傷はともかくとして批判なんかは、たとえば今回の動画なんかは、まったく同意はしませんが認めるところはある。他の動画に直接コメントするなんてのよりはずっといい。
認めるからこそ、スルーをしなかったのです。
いえ、圧倒的な理由は単に「ネタに乗っかった」だけですけどもw
スルーをする、つまり黙ってるのを良しとするのは、批判もするなということになる気がします。
批判にきっちり反応する。それも大事なことと思います。批判(内容でなくその行為)を認めるならば。
と言ってもやっぱり批判合戦もねえ。中傷合戦にすぐなりがちでもあるし。
そこをネタ化して応えるというのは、私はなかなか面白いなと思いました。つまらない動画で応えるのが反論にもなる。
そしてさらにこのこと(ネタ化、祭り化)にも眉を顰める人も少なくないでしょう。
前回のエントリーで、それを元動画の勝利と書きましたけど、うーん、やっぱり違うかな。
ネタ化に眉を顰めるのは、つまらないもの不愉快なものを見たくないという点で元動画と通じるものがあると思った。でも、出す側出さない側ってことで見ると、反応した人のほうが元動画の人と通じるところがあると言えるかもw
批判もまたそれに対する反論も見たくないものってのは、まあそうでしょうねえふつう。私もです。
それを見ずに済むようにするには、個人であれば表に出ないこと(動画をうpするようなことをしないこと)が一番ですし、場であれば可能な限りの住み分けでしょう。
スルーというのはそういうことです。反応することも認めなければ、批判も認めない。住み分ける。
住み分けによって、自分の適した場所であれば個人も不快な思いをすることなくそこに出てこれます。
現実的に一番の方法だと思いますし、ニコニコもさらにはニコマスもそうなってく(すでにかなりそうである?)でしょう。
でも、なんだかねえ。
MADは叩かれて当然のものです。
それがちょっとばかり表に出てきた。そこに面白さのひとつを感じていました。
世間に認められるMAD、ニコマスを望むというのとは微妙に違います。
後ろめたいもの、異物であって邪魔なものであるMADが、どう居場所を作るのだろう、折り合いをつけるのだろうという面白さ?かなあ。
あ、うん。そうですね。
異物がまじることの面白みだな。うん、きっと。
そのうちよりはっきりと住み分け、つまりは他と切り離される=表に出なくなるということになるのでしょうね。
せいぜいそのときまで遊ぶと思います。
PS3については別エントリーで。っておいMADで遊べよ!
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